「第15回夢工学サロン-2025/9/19」議論概要

~川勝さんを囲んでの語らいの場~

 

「夢工学/DEC思考の実践事例」 の紹介

~成功と失敗の5大事業プロジェクト~ <その8>

 

 文責:岩下


<事前配布資料> 

 

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「第15回夢工学サロン-09/19」<事前配布資料:その7> P1〜P100
7.0 成功と失敗の5大事業プロジェクト 第7部 新潟県参与時代の職務  川勝良
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「第15回夢工学サロン-09/19」<事前配布資料:その8> P1〜P131
8.0 成功と失敗の5大事業プロジェクト 第8部 学の分野、他の分野での過去の職
PDFファイル 7.0 MB
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第2部オープニングスライド<追加配布資料> P1〜P7
「日本的アントレプレナーシップとしての夢工学」<夢をカタチにする力>by岩下.p
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「夢工学/DEC思考を具体的にどういう風にやっていくのか?」 「実践するには訓練が必要とのことだがどの様なことか?」という意見がありますので、改めて川勝さんに、実践編として「成功と失敗の5大事業プロジェクト」についてお話を伺うことにしました。

 

 1.新日鐡・MCA ユニバーサル・スタジオ PJT(1878−1879年)<終了>

  2.セガ・ジョイポリスの第1号館&全国多館展開 PJT(1992−1995年)<終了>

  3.岐阜県世界淡水魚リアル&バーチャル水族館 PJT(1995−1999年)<終了>

  4.岐阜県・昭和村 PJT(1999−2003年)<終了

  5.新潟県・大型太陽光発電所 PJT(2005−2011年)<今回

 

今回は<その7>として、「5.新潟県・大型太陽光発電所 PJT(2005−2011年)」 について伺います。

話題提供 : 「夢工学サロンの最終講話と参加者交流会」 の ご案内

        第1部 : 「第15回夢工学サロン」

        (テーマ)  <5.新潟県・大型太陽光発電所 PJT>

             <私の仕事の全貌=過去・現在・未来✕産官学分野✕他>

        第2部 : 「参加者交流会」

             <アントレプレナーシップとしての夢工学>

             ⇒ プロジェクト創造 (PM Creation)

 


<川勝さん講話> 

 

 第1部 : 「第15回夢工学サロン」

「夢工学」と「DEC思考」をどのように実践するか、という皆さんのご要望にお応えし、川勝さんが手掛けた5大事業プロジェクトの事例を通して、実践的な手法を学んできました。今回は最終回として、最後のプロジェクトについてお話しいただきます。第1部の最後には、川勝さんから<私の仕事の全貌=過去・現在・未来×産官学分野×他>と題し、これまでの集大成についてお話しいただきます。

 

「第7部 成功と失敗の5大事業プロジェクト 第7部 新潟県参与時代の職務」

今日お話しするのは「成功と失敗の大事業プロジェクト」についてです。これまで第1部から第6部までお話ししてきましたが、本日は第7部と第8部を取り上げます。内容は相当数にわたりますが、逐一説明すると退屈になってしまいますし、結果的に「自

分の仕事自慢」になってしまうと受け取られかねません。そういう意図ではないことを最初にご理解いただければと思います。

 

まず第7部ですが、私が新潟県庁の新潟県参与として取り組むべき各種の職務の1つである産業振興の職務を担当した時代

の話です。第6部までは岐阜県の岐阜県理事を務めていましたが、その後、新潟県に移りました。県庁で民間人が岐阜県理事

や新潟県参与に任命されるのは珍しいことです。知事の下、副知事が役人のトップで、その次に位置するポジションに、民間出

身の私が任命されたのです。岐阜県では岐阜県理事として10年間、様々なプロジェクトに携わり、その後、新潟県の泉田知事

にスカウトされて、新潟県参与として5年間、様々なプロジェクトに携わりました。ここで私が何をしたかをお話しするのが、第7部の内容です。

 

新潟県庁と東京事務所を拠点に、両方を行き来しながら仕事を進めました。役所としての業務は省略しますが、皆さんに関心

があるのはやはり「事業プロジェクト」でしょう。

新潟県ではまず風力発電の開発を進めました。県内各地に発電所を立ち上げ、部下と共に一生懸命取り組みました。成功も

あれば失敗もありましたが、これが大きな挑戦の一つでした。次に電気自動車です。当時はまだ珍しく、誰も本格的に取り組んでいない時代でした。小型車を中心に、ゼロスポーツという民間企業と組んでプロジェクトを進めました。また、韓国の企業とも連携し、バス事業なども検討しました。

 

さらに、食や特産品の分野にも挑戦しました。岐阜県で「飛騨牛」の立ち上げに携わった経験を生かし、新潟県でも鹿や牛をブ

ランド化できないかと試みました。また、チューリップ球根の大規模生産でロシアへ輸出する構想も検討しました。

エネルギー分野では、風力だけでなく大型太陽光発電にも取り組みました。新潟県の東部産業団地に建設した太陽光発電所

は大成功し、現在も稼働しています。ただし、周辺産業への波及は思うように進みませんでした。それでも当時としては全国初

の大型プロジェクトで、大きな成果だったと考えています。

 

もう一つ挑戦したのは、無人・有人の垂直離着陸機、つまり現在で言う「ドローン」に近い技術です。静岡県のGHクラフト社を新潟に誘致し、無人機は成功しました。さらに有人機の開発を進めようと、日本の大手企業(三菱、川崎重工、播磨など)に協力を求めましたが、どこも応じませんでした。そのため実現には至りませんでしたが、もし成功していれば、日本は世界に先駆けて新しい航空機を開発できたはずだと今でも思います。

 

このプロジェクトには「トキプロジェクト」という名前を付けました。設計図まで完成し、人を乗せても飛べる段階には至っていましたが、最後の課題は「認証」でした。有人機の飛行認証は日本ではなくアメリカでしか取得できず、その費用は数十億円単位でした。資金調達が叶わず、断念せざるを得ませんでした。

 

このように、新潟県時代にはエネルギー、モビリティ、食品、花卉、航空と、多方面にわたるプロジェクトに挑戦しました。成功もあれば失敗もありましたが、常に「新しい産業をどう立ち上げるか」をテーマに取り組んでいたのです。

 

<Q&A>

ここで少しご質問をお受けしようと思います。ご質問のある方は遠慮なくどうぞ。

 

・(質問)新潟県では、どういう立場で、このような動きを作られたり、提案されたりしたのか伺いたいです。普通の組織には、こうしたことを考える人はいないと思います。

⇒(回答)その前に、岐阜県でどういうことをしていたかについても少しお話しします。

岐阜県では「県の三役」という立場でした。つまり、私の下にすべての部局長がつき、私の上には知事と副知事しかいません。

岐阜県のときも新潟県のときも、「産業を振興し、地方を活性化せよ」と云う事が正規官僚の私に課されら各種の職務の中で最

も重要な職務でした。

 

地方を活性化するにはいろいろなやり方がありますが、要点は「地元で企業を起こす、新規事業を立ち上げる」ということです。そのために岐阜県で取り組んだのは、水族館の建設(リアルとバーチャルの両方)、そして昭和村の開発でした。観光客を呼び込み、周辺の物産や流通にも波及させる、そうした産業振興のための新規事業です。

 

新潟県でも「県の三役」という立場で多くの部局長と共に知事からの「新しい事に挑戦して欲しい」との要請に従って多くの事業プロジェクトに取り組みました。事業主体は県庁の場合もあれば民間の場合もありました。たとえば新潟県の大型太陽光発電

は県営事業でした。岐阜県の水族館も県が資金を出し、民間と一緒に進めました。つまり、県と民間のバランスをとりながら進

めていたわけです。

 

重要なのは「事業計画として成立させ、収益を出すこと」です。収益がなければ維持できません。ですから私が関わった水族館

や昭和村はいまも黒字で維持されています。新潟県の太陽光発電事業も同じです。要するに、役所の仕事として民間と協力し

、新しい事業をつくるというやり方を進めていたのです。

 

・(質問)事業を進めるには「事業性の評価」が不可欠だと思います。各事業で、その評価はどのように行ったのでしょうか?

⇒(回答)例えば太陽光発電所については、事業評価を行う会社が数多くあります。役所が主導して動いているため信用度も

高く、情報も多く得られました。そのため、事業性の評価自体にはあまり苦労しませんでした。新潟県の場合は、新潟大学の教授や講師といった専門家にも参加してもらいました。問題は評価そのものではなく、その評価を認めて投資してくれる民間企業が現れるかどうか、そちらのほうが大変でした。

 

例えば垂直離着陸機の件では、多くの企業が断ってきました。それは事業性を否定したわけではなく、自分の会社としては取

り組まない、という意味でした。つまり「まだ世の中に存在しない新しいものをやる」ことへの躊躇です。

ただ、いまでもやろうと思えばできることは多くあります。皆さんの会社でも同じアプローチが可能です。国と組むよりも、困っている県と組んだ方が新規事業は進めやすいでしょう。

 

補足しますと、企業が断る理由は「事業性がないから」ではなく「うちの会社ではやらない」というものでした。やるべきこと自体は間違っていなかったと思っています。

 

 

「第8部 成功と失敗の5大事業プロジェクト 第8部 学の分野、他の分野での過去の職」

 

時間も限られていますので、それでは次、第8部の説明をさせていただきます。私がいろいろな大学の教授として経験したこと

をお話しするだけですので、それほど時間を取らないと思います。

 

最初のきっかけは、岐阜聖徳学園大学の事務局長から電話をいただいたことでした。「ぜひ本学で講義をしてほしい」と言われ

たのですが、最初はお断りしました。しかし知事に相談したところ、「地元の大学からの依頼なのだから受けろ」と言われ、引っ

込みがつかなくなってしまったのです。

 

実は以前、ニューヨーク州立大学(バッファロー校)でも講義をしたことがありました。私が新日本製鐵のニューヨーク駐在員をしていた時、ある教授から特別講師を依頼され、最初は断ったのですが、当時の所長に「そんな機会は滅多にないから受けな

さい」と言われ、結局やることになりました。これが私の大学での初めての講義です。その時は、アメリカと日本の仕事の仕方

について話しました。当時は日本が「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われていた1976〜78年頃の一番良い時代でした。

 

この経験を知った聖徳学園大学の教授から「それならうちでもできるはず」と依頼され、経営戦略論や夢工学などを学生に教え

ることになりました。その講義が聖徳学園大学での仕事の始まりでした。

その後、亜細亜大学からも依頼がありました。これもご縁で知り合った方のつながりから、「ぜひ講義をしてほしい」と頼まれ、

断りきれずに受けました。そこでも講義をすることになりました。

 

さらに、岐阜県時代に知事と一緒に東京で懇親会を開いた際、東大でコンピューター勢力圏解析学者の杉原厚吉教授(後に

錯覚学で有名になる)と知り合いました。この教授に私は大変に気に入られ、東大でも夢工学の特別講義講師をやらさえる羽

目になりました。その際、私は「通常の講義ではなく、ライブ・ケーススタディ(Live Case Study)をやること」を受諾条件にしました。つまり、ハーバード大学の過去の成功事例を学ぶデッド・ケーススタディ(Dead Case Study)ではなく、現在の新しいテーマをプロジェクトの題材にして実際に開発する「夢工学式ライブ・ケーススタディ」を授業で学ぶ事を実施したのです。

 

その他に中央大学・客員講師として夢工学を教える一方、法政大学特任教授としてバーチャルリアリティや最先端ITなどのテ

ーマを研究し、その実現にも協力しました。また大学改革の支援も行い、不適切な教授や職員を排除する大学改革を成功させ

ました。更に国際大学や東北大学など、さまざまな大学で特別講師を務めました。現在も各種の大学から依頼を受け、特別講師として大学生や院生に講義しています。

 

また多くの日本人は誤ったDX活動を行っています。私はDXについて正しい理解が広がるよう、あちこちで講演を続ける一方、

企業が本当のDXを実践する様に経営コンサルの場で支援指導しています。

 

私は中国との関わりを今も持っています。私は中国教育部(日本の文部科学省に相当)から文教参事官に任命され、中国政

法大学の客座教授を務めることになりました。これは、亜細亜大学で私が教えた中国人学生とのつながりが元で、教育部が「

夢工学」を調べた結果、世界に同様の学問が存在しないことが分かり、同部が私を正式に認定しました。

 

私は中国語を忘れてしまっていたため、講義は英語や日本語を使い、必要に応じて翻訳してもらいました。しかし現在、中国の

政治状況もあり、現地に赴くことはやめています。その代わりに、中国政法大学の教授に日本へ来てもらい、私から来日教授

達に最新の夢工学を伝え、帰国後、それを中国政法大学で教えていただくという形をとっています。

中国政法大学は非常に有名な大学で、政治や法律に関わる人材の多くを輩出しています。中国の4人に1人の法律・政治関係

者がこの大学の出身者とも言われています。しかし大学内部には現在の習近平体制に批判的な勢力が存在するため、私自身は同大学に教え行かないと云う慎重な行動を続けています。

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「学」の話はこのくらいにして、他にも私はいろいろな仕事をしています。実はプロとして演奏活動もしておりまして、これについては後ほど皆さんに配布した資料でもご覧いただけると思います。

 

私は「東京倶楽部」というお店に飲みに行った時、友人の出演中のピアニストに誘われてピアノを弾いたのがきっかけで、お店

から「うちで出演しないか」と声をかけられました。それ以来、東京倶楽部という有名なライブハウスで、約30年間出演を続けてきました。その経験があって、ある音楽プロデューサーが私の作曲した曲を気に入ってくれました。その方は日本ビクターの音楽プロデューサーで、私を日本ビクターの社長に紹介してくださり、ビクターの支援を受けることになったのです。

 

その結果、私は作曲家として日本音楽著作権協会(JASRAC)から正式に作曲家の認定を受け、自分の作った曲に音楽著作

権が付与される事となりました。今もその活動を一生懸命続けています。作曲した曲の一部はここに記しておきました。

今、私が特に力を入れていることがあります。それは「いろはの歌」を広めたい、ということです。日本には「いろはの歌」があることはあるのですが、どうも冗談めいたものばかりです。そこで私は真面目に「いろはの歌」を作曲し、音楽著作権も取得しました。ぜひこの曲を流行らせたいと思っています。

 

実は今日ご参加いただいている中谷玲子さんが、この歌の2番の歌詞を書いてくれました。私はその歌を歌手でない彼女に無

理やり歌ってもらい、音源録音を作成しました。偶然にも今日ここに来てくださっているので、ご紹介させていただきます。

また、「石坂まさを」さんから依頼を受けて作曲した作品もあります。彼は藤圭子さんの歌を世に出した方で、彼と私と一緒に作

詞・作曲を行いました。残念ながら石坂さんは亡くなられ、その曲を世に広めることは叶いませんでしたが、そういった活動も続けてきました。

 

音楽以外の分野でも、社会福祉法人や学会、PMAJなどに協力し、幅広く活動してきました。その一部も資料に書いておきまし

た。さらに、私は「錯覚を活かした活動」にも関わってきました。これは杉原厚吉教授と一緒に、錯覚美術館を作れないかと研究を進めてきたものです。杉原先生は東大をご退職後、明治大学の特任教授、そして名誉教授となられ、現在も研究室を持ちながら錯覚の研究を続けておられます。

 

私たちは「錯覚美術館」と「錯覚テーマパーク」を夢として検討してきました。その結果、杉原先生は国の支援を得て「錯覚美術館」を実際に実現されました。今は閉館していますが、大変立派な業績でした。

私と杉原先生が最後に一緒に目指していたのは「イルージョン・マジカル・ワンダーランド」というテーマパークです。これは、錯覚やマジックを融合させた、本物のテーマパーク構想です。杉原先生が描いた設計図やイラストも残されています。こうした作品は世界中を探しても類がなく、立体的でダイナミックなものです。

 

このテーマパークが「本物」である理由は、新しいネタを次々に生み出せるシステムを持っているからです。ディズニーランドやユニバーサルスタジオが映画という新しい物語を次々にコンテンツ化しているように、マジックや錯覚も尽きることがありません。錯覚学会も立ち上がり、世界中から新しいアイデアを集められる仕組みがあります。

 

実は、このプロジェクトに資金を出そうという企業も現れました。中国・北京の大手コングロマリットです。しかしコロナ禍で計画は一時中断しています。私はできることなら、このテーマパークを日本で、日本人の力で実現したいと願っています。もしご関心のある企業があれば、ぜひ検討していただきたいと思います。

 

そのほかにも、私はNTTデータで特別講義やコンサルタント業務なども行っています。以上で、私の第8部の説明を終わらせて

いただきます。ご清聴ありがとうございました。

 

<Q&A>

7部、8部をハイスピードで進めさせていただきましたが、ご質問やご意見、感想などありましたら伺います。

 

・(質問)毎回お話し伺うと驚かされるのですが、どのようにネタを集め、そのネタを消化し、人に伝える自分の夢として形にしているかということです。この辺りは個人の技なのか、それとも何か体系的な方法があるのか、気になるところです。

 

⇒(回答)実際、そんなに大したことをしているわけではありません。ネタ集めについては、私は「夢工学式発想法」という発

想法を利用しています。自分の頭だけで考えると限界がありますので、紙にどんどんアイデアを書き出します。ポンプのように

次々出していくのです。数は100や200ではなく、何千というレベルです。そして出てきたアイデアを眺めているうちに、新しいアイデアが次々と浮かびます。

 

その後、出てきたアイデアをもとに、簡単な企画書を作ります。大まかな構成で、現状から将来を見るのではなく、夢工学の基

本として、未来から現実を見るのです。いわば「バック・ザ・フューチャー」のように、未来の姿を描き、それを現在に戻すイメージです。とんでもないこと、できそうにないことも書きますが、あたかも実現しているかのような絵を描くのです。

 

それを関係者や企業のプロに見せると、「これは面白い」と評価してもらえることがあります。先ほどお話しした事業性の計算は

、その後で具体化してからの話です。具体化する前は、皆で面白がって、ざっくばらんにアイデアを出し合います。そうして

10〜20案作るうちに、1〜2案が形になってくるのです。

 

例えば、岐阜県の昭和村の話です。ある時、梶原知事にアイデアを説明していたところ、「川勝さん、頼みがあるんだけど」と逆

に声がかかりました。岐阜県には愛知県のような名勝地があるわけではなく、何も無い地域をどうするかという課題でした。昭

和村を作るには、太平洋戦争や戦後の暗い歴史をどう表現するか悩みました。そのときもアイデアをひたすら出すことで解決

策を導きました。

 

重要なのは、アイデアの量です。質ではなく量。例えば、ジョイポリスの名前を決める際も、最初は1万件以上のアイデアを出し

、そこから徐々に絞って最終的にジョイポリスとガルボの2案にしました。数を出すことで、良いアイデアが生まれるのです。

では、その大量のアイデアを出すモチベーションは何か。私は岐阜県に役立つプロジェクトを任されていたため、「やらなけれ

ばならない」という責任感がありました。大事なのは、単にモチベーションではなく、数を出さなければ良いアイデアは生まれないという認識です。これはブレインストーミングでも同じで、すべての発想において数を出すことが基本です。

 

自分自身のキャリアを振り返ると、私は特別な人間ではなく、普通の人間です。昭和村のプロジェクトも私一人で行ったわけで

はなく、知事や部下たちとチームで取り組んだ結果です。しかし、アイデアを出すときは寝ても覚めても考え、思いついたらすぐメモに書き留めます。最近は便利なメモ機能を活用しています。

 

発想法は、ピアノやゴルフの練習と同じで、やってみなければ身につきません。やらなければ浮かばないのです。部局長や同

僚も同様に、実際にやってみて初めてアイデアが出るのを体験させます。

 

昭和村のアイデアについても苦労しました。戦争や戦後の歴史をどう表現するか、最初はアイデアが全く出ませんでした。しか

し、ある時、計画図と岐阜県の地図を見比べ、北から南にかけて最も栄えた時代を想定した配置を思いつきました。南は「街」

の地域で柳瀬ブルースで栄えた商店街やキャバレーなどを設置、中央には「農」の地域で田畑や村落などを設置、北は「林」の

地域で製材所の施設の中にゲームセンターを作ったり、木製ジェットコースターを配置する。まさに良き岐阜県の或る瞬間を切

り取った「昭和村」を復元するのです。

 

しかし「或る事情(公開不可)」から完成した昭和村は、実際には中央部分のみですが、当時の栄えた時代を切り取った形として再現しました。南側にストリップ劇場、北にジェットコースターを配置することで、昭和のある時代を復活させるイメージを具体化できました。

 

・(質問)事前にいただいた資料が膨大で全部読めませんでしたので、今日話を聞いてから読むことにしました。7部の最後に、

飛行機の話でアイデアを持ちかけた際の反応について触れられていました。それについて伺いたいです。なぜ、日本の企業は

反応しなかったのでしょうか。アメリカなら実行したかもしれませんが、日本企業は消極的でした。その理由は?

 

⇒(回答)私も考えましたが、明確な理由はわかりません。飛行機の話を持ち込んだ企業側の問題かもしれません。率直に言

えば、「新しいことをやりたくない」と考える会社もありました。航空会社は確立した顧客に効率的な機体を使えば十分で、新規

事業には消極的でした。製造企業もトップまで届いていない場合、経営判断として議論されなかった可能性があります。

 

私自身は役人でしたので、自ら創業者として新事業を進める立場ではありません。1000億〜2000億円規模の資金を集め、事

業化する力もありませんでしたが、アイデアは出し、会社も見つけ、採算性の計算も行いました。

 

 


第2部 : 「参加者交流会」

オンラインでの開催が多かった夢工学サロンですが、今回は対面での交流会を企画しました。この機会に、川勝さんの快気祝いも兼ね、皆で楽しい時間を過ごしましょう。

誰もが心に抱く「夢」は、新たな価値を生み出すプロジェクトの源泉です。しかし、その夢を形にするには多くの課題が伴います。本懇談会では、アントレプレナーシップとしての「夢工学」の視点から、漠然としたアイデアを具体的なプロジェクトへと昇華させるための思考法や手法を探求します。起業家精神を持つ人々が集い、互いの夢を語り合い、新たなプロジェクト創造への道筋を共に描く場にしたいと思います。

 

 

オープニングスライド紹介

<日本的アントレプレナーシップとしての夢工学> by岩下(事務局)

 第2部のテーマとして準備した資料を、話の切り口としてご紹介したいと思います。

夢工学サロンも今日で15回目です。これまで川勝さんのお話を聞いてきました。最初は「これはどう理解すればいいんだ」と戸

惑ったこともありました。しかし、今後は若い人に引き継いでほしいと川勝さんも期待されていますので、事務局を担当した立場として、私自身が理解したことをご紹介できればと思います。

 

夢工学というのは、結局のところ「アントレプレナーシップ=起業家精神」として捉えると理解しやすいのではないでしょうか。夢を形にする力としてのアントレプレナーシップです。なぜ今のように予測不能な時代に「夢」が必要なのかというと、終身雇用はなくなり、AIの台頭などによって将来が読めない時代になってきているからです。

 

従来の組織の指示待ち体質では、もはや価値を生み出すことができません。変化に対応し、自ら道を切り開く力が求められて

います。アントレプレナーシップは日本ではあまり一般的ではありませんが、「起業家精神」と訳され、組織の中で実践する「イ

ントラプレナーシップ(社内起業家精神)」という考え方もあります。川勝さんは外に飛び出すタイプでしたが、これからは組織内の人も指示を待つだけでは生き残れません。誰もが企業家的な力を身につける必要があります。

 

アントレプレナーシップの訳には「起業家精神」「企業家的行動能力」「イノベーションを遂行する当事者」など様々なものがありますが、要するに「困難や変化に対して、自ら枠を超えて行動し、新しい価値を生み出す精神」です。これは人間としての「根源的な生きる能力」であり、今後すべての人に必要となるでしょう。その要素には想像力、チャレンジ精神、リーダーシップなどが挙げられます。

 

夢工学は、これを「夢をエンジンとして未来をつくる」学問として体系化しようとするものです。単なる計画やプランでは何も起きません。心の底から「自分の未来を実現したい」という思いこそが困難を乗り越える力の源泉となります。

 

夢工学の中心は「デック思考」です。正式名称は「Dream Engineering-based Creative Thinking」で、佐藤義男さんが命名されました。私はこれを「Dream(夢)」「Execution(実行)」「Concept(概念)」の三位一体と理解しています。夢を語るだけでは他人事に聞こえ何も起こりませんが、そこに実行と魅力的なコンセプトを結びつけてこそ、人を動かす力になります。

 

 

こうした意味で夢工学は、日本的なアントレプレナーシップとして再整理し、知識体系としてまとめ、次の実践フェーズに進めていくべきだと考えています。変化の激しい時代だからこそ、私たちは夢を持ち、それをビジネスや社会に実装する力を育む必要があります。

 

⇒(川勝さんからのコメント)

DECの文字を「Dream(夢)」「Execution(実行)」「Concept(概念)」の言葉に展開され、三位一体の「概念」に止揚された事に心からの絶賛を送らせて頂きます。お見事です。ありがとうございます。夢工学を宜しくお願い致します。そして「夢がある日本」を築いて下さい。

 

この続きは第2部で、お酒を交えながら自由にディスカッションできればと思っています。参加される方は気軽にご意見をいただ

ければ幸いです。

 

以上